「アート」や「表現」というのは、どちらかというと、個人の「自由」のために戦ってきた感が強い。100年ぐらい前は、多くの人々が抗えない力に屈していたのだから、当然といえば当然。もちろん「表現」に限らず、いろいろな権利が「自由」のもとに拡張されてきた。それから100年経った、現在の私たちにとっての「自由」の意味ってなんだろう? 「個」や「国」に完結した欲望や目的の達成によって測られるような「自由」は、多くの他者が等しく幸福になることと矛盾を引き起こしてしまう。それは「表現」も同じ。個人が強く主張すれば、それを受け取る他者にとって、その「表現」がいかなるものなのかが問われてしまう。

一方で、多くの人にとっての正しさを探せば、ポピュリズムに陥ったり、目先の利益に振り回されたり、逆にコントロールされた答えに偏ったり…、「自由主義」と「民主主義」はあまり相性が良くないはずなのに、いろいろなところでバランスをとらざるを得ないから、「忖度」ではないけれど、よくわからない基準で、いろいろなことが決定されていくようだ。

では今日の私たちの営みのなかにある「自由」とは、どういうものなのだろう? あるいは現実的に世のため人のためになるとは、どういうことのなのだろう? 特に「アート」とというとても曖昧な概念を前提に「表現」を考えると、その両者で、優柔不断に陥ってしまう。そもそも今後の文化が担う役割がどんなものか、ぼんやりして、はっきりしない。

あるいは「自由主義」と「民主主義」に分けない、別の考え方が必要なのかもしれない。

そのためには「今までしてきた悪いこと」だけを改めるのではなく、「今までしてきた良いこと」だって改めていくべきだろう。

例えば、表現の教育では「自分のため」というのが大前提だったけれど、「他人のため」に表現があったって、なんら問題はないはず。その時代に良かれと発言された徳の高い言葉に傷ついて潰えていった表現も数知れず。改めるべきことは、その「良いこと」の方にだってたくさんあるのだ。

という私だって、なぜだか芸術を学んでしまって、学んだことをないことにもできず、ジレンマに苦しんでいるのだが、
悔やんでばかりでもしょうがないので、なぜだか「芸術」を学んだのに、現状に放り出されている人たちと一緒に、つくったり、みせたり、試したり、話し合いながら、ひとつひとつ考える「場」としてblanClassを運営してきたつもり。そのblanClassだって「今までしてきた良いこと」をそろそろ改変しなければなぁと思っているところ。

小林晴夫(2018.4-5 チラシ掲載)


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