CAMP[春の終わりの上映会|川上幸之介×田中良佑]
日本における外国人、移民労働者を扱った川上幸之介の《Mizushima Complex》(85分)とイスラム教を扱った田中良佑の《とめどない光のなかで In the never ending light》(121分)の上映会を開催します。
日時:2017年4月29日(土)15:00~22:00 ※開場は14:30
参加費:片方[15:00-18:00/18:30-22:00]1,000円(前日まで予約)、1,500円(当日)
両方[15:00-22:00 ※軽食付き]1,500円(前日まで予約)、2,000円(当日)
定員:30人
<スケジュール>
15:00-18:00 川上幸之介《Mizushima Complex》+ディスカッション
18:00-18:30 休憩
18:30-22:00 田中良佑《とめどない光のなかで》+ディスカッション
<ゲスト(ディスカッション)>
粟田大輔(美術批評)ほか
<予約方法>http://goo.gl/forms/SNvcllscqB
※ 当日参加も大歓迎です。その場合でも準備がありますので、ご予約をお願いします。
川上幸之介《Mizushima Complex》 85分、HD video (color, stereo)、2016-2017年
私の関心は、社会的、政治的な流動や国家的な対立の中で揺れ惑う個々人の心理的な状態について、また作品内の個人史をとおして社会的想像力を生み出していくことです。本作で考察したことは、権力といった外的な力が時代を超えて労働者の心理や肉体へと流れ続け、それが個々人の内部の力と衝突する様子です。日々秩序正しく動く水島工業地帯に対して、混沌とした人間存在の無秩序が衝突し、さまざまなストーリーが展開されていきます。
第1章では戦争という究極的に個を奪い取られる環境下において、過去は現在を理解するためにどれほどの助けになり、この時、個と全体の記憶、歴史にはどのような役割があるのかを考察しています。第2章では戦後の移民制度におけるプッシュ要因とプル要因をキーとして、現代において、異なる背景を持った他者への同化、編入、統合への解釈を問い、第3章では移民労働におけるジェンダーの問題を顕在化し、どのような抵抗を持つことが可能かを考察します。
これらのチャプターの間には、無限な個々のパターンがあり、移民は次から次へと生まれ、次から次へやってきます。本作品は歴史の大きな物語によって消された人々へのインタビュー取材を通じてアジアにおける近代と現代の歴史を調査し、人間存在への様々な問いを提起するものです。
田中良佑《とめどない光のなかで In the never ending light》 121分、2016年- (work in progress)
現代では、イスラム教についての話題をよく聞くように思う。日本という場所に生まれた自分としては、その存在は少し遠く思えた。昨年、留学中にイスタンブールに訪れた際、滞在中に空港でテロがあった。”テロ”というニュースがこれほど肉迫したのは初めての経験だった。同時期に、バングラデシュでも日本人やイタリア人を狙った事件があった。僕は”彼ら”のことを知らなければいけなかった。自分の中で”偏見”のようなものがこれ以上育っていくことが耐えられなかった。このままでは僕にとって”彼ら”は永遠に”彼ら”のまま、そしてまた”彼ら”にとっても僕は永遠に”彼ら”と呼ばれたまま、そして死んでしまうのではないかと思った。それは嫌だと思った。今できることを今するしかなかった。僕は、東京のモスクに話を聞きにいくしかなかった。
第一章 ”Mankind without You” 君のいない人類
ムスリムの方に質問をすると、彼らはよく、コーランの一節を教えてくれる。
“人を殺した者,地上で悪を働いたという理由もなく、人を殺す者は全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は,全人類の生命を救ったのと同じである。”(食卓章 第32節)
その言葉は、目の前のその一人の命を最大限尊重するような素晴らしい慈悲にあふれたものだと、僕もいつも思う。だがしかし、それでも人は殺される。人は殺す。どんなものであれ、それぞれに理由があることは、頭では理解できる。残酷な無差別テロでもいい、非情な爆撃でもいい。誰かが誰かに確実に殺されている。今日も誰かが”全人類”を殺している。そしてそれは”どこかの誰か”ではなく、僕自身である可能性はいくらでもある。僕の大切な人かもしれない。僕らは知らない誰かに殺されて、死んだ時にはニュースで国籍を、数字として表され、世界中(国家のある地域)をニュースが駆け巡る。たとえば彼が爆弾を空港で爆発させる一分前と、その後で、僕たちの”全人類”はもう前の人類じゃなくなってしまった。君のいる全人類は、君がいた全人類に変わってしまった。それは、僕にとってあまりにも巨大な事実だ。勿論、死後の人生や世界というものがあることも、よくわかるけれど、ここで言いたいのは、”この世”の事実の話なんだ。勿論、”全人類”は変わらない素振りですべてを続けていく。たった一人のために全人類は嗚咽しない。たった一人の人が、目の前のたった一人の死のために、嗚咽する。そんなとき、彼が教えてくれたコーランの言葉は、そのたった一人に、そして”全人類”に、いや、もう”君のいない人類”に、どのような意味を響かせてくれるのだろうか?
第二章 ”First sky and Gray road” ひとつめの空、灰色の道
ムスリムの方に話をすこしづつ聞いていくうちに、テロだとか暴力だとかよりも、気になる事が増えて来た。もっと根本的な、果てしのない、考え方のようなもの。
僕の家は昔仏教で、よくお経(般若心経)を唱えていた。いまでもぼくは暗唱できる。でも、お経の意味はよく知らない。イスラムの教えでまず最高最大の原理は、アッラーの存在だということは話を聴いていても、痛い程にわかった。けれども、痛い程に、その存在を心の底から理解する事が難しいように思った。きっと時間が必要なんだと思う。
少なくとも、これまでの日本で送って来た人生で、ほとんど触れる事の出来なかったイスラム教の世界の捉え方は、今まで僕が、明治時代以降、西欧化が甚だしいこの日本と言う国家に生まれ育ち、培って来た世界観とはまるで違っていた。僕は、モスクに行ってそんな話を聴くたびに頭がひっくり返されるような、”ぐるん、ぐるん”と音さえ聴こえてきそうな程の想いを感じていた。たとえば死生観だとか、哲学だとか、いままで僕が触れて来た曖昧な考え方のようなものに、どんどん自信がなくなっていった。もとから自身は無かったけど、さらになくなっていき、話をきくことが怖いという感情さえ覚えるようになっていた。どっちが正しいとか、間違ってるだとか、そんなことは僕はあまり決めたくないけど、決めなきゃいけないこともあるようだ。
浅草などに行き、”日本の伝統文化”の表象に触れると、いつも違和感がある。あれらの表象はもう僕にとって”他者”の表象に思える。遠い遠い、どこかの国の、全然違う考え方を持った、人達の文化。まったく違う世界の捉え方をしている人達のそれ。だから、僕も外国からの観光客とたいして変わらない。ヨーロッパの古い教会を、口をぽかんと開けながら目を見張るのと同じような、他者感を、僕は浅草にも感じる。(それは多分、日本に限った事じゃないと思うけれど…。)
イスラム教徒の人は、よく1400年前は…と、神が人類を創造されてから…、と、100年とか200年どころでないスケールで、世界を語ってくれる。そんなとき僕の頭はまたしても”ぐるんっ”とひっくり返されるような想いになる。なんどもいうけど、僕は、どっちの考え方が正しいとか、間違ってるだとか、そういうことを、今は言いたくない。ただ、今は、全然違う世界の捉え方をしているそれをもっと知りたいと思ったし、知れば知る程に、僕たちが今まで鼻唄まじりに歩いていた、大地の息を塞ぐように覆われた、沈んだ灰色のアスファルトで固められた舗道も、音を立てて崩れてしまいそうなほど、不安定なものになっていくのを、この足の裏で確かに感じた。
第三章 “You may know each other” 互いに知り合うために
”イスラムを知る”プロジェクトはまだまだ途中である。(そもそも終わりはないと思うけど)今では、自分の狭い範疇にまとめることになってしまうだろう。じゃあ、自分の範疇に押し込むような形でない経験の伝え方とはどのようなものだろうか? 簡単に理解した気になっちゃいけない。”理解できないまま”に ー けれど、その”理解のできなさ”は、ネガティヴなものではなくて、ポジティヴなものとして紡ぎ出す事はできないだろうか? 簡単に”理解”できるわけがない。そして、それぞれの他者を”私”と考えることは全く容易じゃない。同じような場所で同じようなものを見て、聴き、身体や趣味も似ている人ならば、少しは想像しやすいかもしれないけれど、全く持って、違うところに生まれて、宗教や文化の中で見てきたもの聞いてきたことが違う人に、そういう人ばかりで、そういう人を想像して少しでも理解する、そういう人になろうとする、にはどうすればいいのか。
“人びとよ、われは一人の男と一人の女からあなたがたをを創り、種族と部族に分けた。これはあなたがたを、互いに知り合うようにさせるためである。”(部屋章 第13節)
この、有名なクルアーンの一節に、僕もまた一人ある希望を見出せるのかもしれない。唯一の神は、違うことを肯定し、わかりあえないことすら一度肯定しているように思える。わかり合えないように ー 僕たちは違うからこそ、”全く理解できない”からこそ身を乗り出して、耳をそばだてて、目を見つめて、触れようとする理解しようとする。”知ろう”とする。それこそが人なのだと唯一の神は告げている。そうして、もしも互いが互いを知ろうと身を乗り出して見つめあった時に、それがどれほど”わからない”ものでも、いや、”わからない”ものであるからこそ、僕たちは互いに”知り合える”んだ。そんな風な事を言い聞かせて、僕は一人の”人”として、これからも引き続き話を聞いていこうと思った。
川上 幸之介 Kounosuke KAWAKAMI
1979年山梨県出身。2004年ロンドン芸術大学セントラル・セントマーチン ファインアート科修士課程修了。倉敷芸術科学大学芸術学部 講師。主な個展に「Migration」(Pippy Houldsworth, ロンドン)、「Halo-Poses」(Daiwa foundation, ロンドン)、「Ruin」(Identity Gallery, 香港)、「Mindustrial Evolution」(Bearspace, ロンドン)。主なグループ展に「Japon」(Abbaye Saint Andre Centre d’art Contemporain, フランス)、「Double Message」(Scai the Bathhouse, 東京)。主なコレクションに UBS Bank New York / Los Angeles / London; Pigozzi Collection; Taguchi Collection 他多数。
http://www.kuragei.com/
田中 良佑 Ryosuke TANAKA
1990年香川県出身。2014年東京造形大学造形美術学科絵画専攻卒業。2016年ポーランド ヴロツワフ美術大学交換留学。2017年東京藝術大学大学院美術研究科卒業。主な展覧会に「ERASMUS」(Aula, ヴロツワフ, ポーランド, 2016)、「国立奥多摩映画館」(国立奥多摩美術館, 東京, 2016)、「躊躇」(HIGURE 17-15 cas, 東京, 2015) 、「STRONG SMART 賢明と傷心」(3331 Arts Chiyoda, 東京, 2015)、大館•北秋田芸術祭2014「里に犬、山に熊」(大町商店街, 秋田, 2014)、「泪の上で」(泪橋交差点角 OKビル, 東京, 2014)などがある。2013年「MEC AWARD 2013」入選。
http://lalalalarush.wixsite.com/ryosuke-tanaka
CAMP
CAMPは同時代のアートを考えることを目的としています。アーティストやキュレーター、ディレクター、批評家、研究者、学生などと関わりながら、トークイベントや展覧会、パーティーなどを主に東京で開催しています。
http://ca-mp.blogspot.com/