芸術と、社会、歴史、政治を結びつけて活動していくことは、とても難しい。それは戦前戦中の芸術家たちの動向を見てもわかることだが、個人からの真摯な態度ほど、権威からも市民からもなぜか忌み嫌われるところがある。発信者である個人もまた、自身の中に保守や幼稚さを抱えていて、しっかりとした態度に踏み切れないのかもしれない。そんな態度は、大勢を占めるムードに簡単に回収されてしまい、大抵はへこたれてしまう。

その上「アート」なるものが、とても曖昧な概念なので、世の中に厳然と存在している問題を触れようとしても、今度はその曖昧な「アート」のなかに回収され、評価のなかに埋没してしまうから、とうとう届くべきところに届かない。そればかりか、「アート」は、それを好む人にとっても、好まぬ人にとっても、特別なものとして祭り上げられてしまいがちだから、なおのことたちが悪い。大昔であれば、そういう高みがあってこそ、権威とも対等の位置から物申すことが可能だったのだろうが、そういう古い図式を反省もせずに引き継いでいることこそが保守の姿勢に違いない。

芸術と、社会、歴史、政治を結びつけるといっても、絵に描いたようなステレオタイプのポリティカルアートでは困るし、「リレーショナルな感じ」みたいに流行ってしまうのもどうかと思う。「アート」の立ち位置が安定していると思い込んで、自身の領域への批判が足りなければ、なにを問題にしたところで、結局は「アート」を装うモチーフにしか見えない。個々の問題を自分が拠点にしている専門から眺めた上で、切り分けてしまったら、結局はゲームに偏ってしまうだろう。一番切実な問題とは、簡単には分けることができないような事柄のはずなのだ。

東京都現代美術館の「MOT アニュアル 2016 キセイノセイキ」を見て、またその展覧会をめぐって物議を醸していることについて、改めて「アート」の立ち位置が悩ましいものに思えてきたので、ついこんなことを書いてしまった。

話が横道に反れるようだが、最近はちょっと気が利いている大学生なら、自分の将来の「work-life balance」を真剣に考えている。だいぶ前から、海外との比較があっての発言なのだろう、東京で活動しているアーティストたちが「この国で仕事や生活をしていると、なんでこんなにせわしなくなるんだ」と嘆くのをよく耳にする。ちょっとでも気を抜くと、雑務に追い立てられるようになってしまうというのだ。お金や生活のためだけに生きるのは、まっぴらごめんだけれど、アートのためだけに生きるぐらいなら死んだ方がましというものだ。

かといって、「アート」を投げ出してしまったら元も子もない気がするので、「アート」を拠点に考えるのだけれど、誰も「アート」の上に立っているわけでもないことを改めて確認したい。タイトルには仮に「art‒life balance」としてみたが、「work-life balance」が示す意味以上に、いろいろな難問を地続きなこととして、生きていく方法を考えていくべきだと思うのだ。

6 月、7 月には、その「キセイノセイキ」にも出品しているアーティストから藤井光、橋本聡が出演してくれることになっている。それほどの意図があるわけでもないが、モヤモヤしているだけでもいけないので、もう少し先に歩みを進めてみたい。

小林晴夫(2016.6-7チラシ掲載)


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