先だって「〈私〉の解体へ|柏原えつとむの場合」(国立国際美術館)という展覧会にいった。〈私〉の解体とは、当然のことながら、一般化され、肥大化した概念としての〈私〉という存在のことだ。民主化の仮面を被った、20世紀的超情報化消費化型の権威のことでもある。そしてもちろん、神話化されてしまった〈私〉たちの〈芸術〉をも指し示している。そこに現れているのはただの仕掛けだけかもしれないのに、その「思考」の賜物を共有することを拒んで、どこまでも曖昧な〈芸術〉なる概念を前提にして、「解釈」という幼稚な物語に回収しつづけることで、作品やそれをつくった個人を特別なものに祭り上げてしまったことが、生きたツールとしての芸術を無効なものにしてしまっている。
 展覧会にいく前日、柏原さんと飲みながら、そうした作家の理念を聞いているうち、柏原えつとむが私たちに突きつけてきた課題の重みを今さらながらに思い知った。柏原氏からみればblanClassで起こっていることも、不完全な足踏み表現に見えるかもしれないが、blanClassで起こっている、いわば「作品未満」の行為を丁寧に見てみると、これまでだれかが独占しようとしてきた既得権益、安定した価値や安全な立場など、これまでの社会のあり方の一切合切を「解体」し、あくなき再統合を、多様な方法を駆使して実践している。そういうアーティストが少なくない。
 脱線するようだが、「この国の文化はポリティカルなものがほとんどない」という紋切り型の発言を良く耳にする。そうだろうか? 世阿弥も観阿弥も利休も芭蕉もポリティカルではなかったか? 現在の日本の文化にしても、サブカルを含めポリティカルでない表現を探す方が難しい。単純にナショナルな図像を反語的にズラして並べるのが「ポリティカル・アート」だというならば、そういうステレオタイプなポリティクスは、特に日本のアートに探しても無駄なようだ。しかし主流や標準の価値に対してオルタナティブに個人の価値を示すという意味においてポリティカルな姿勢をあきらめないアーティストはたくさんいる。ただこの国の文化をちゃんと理解したいのなら、気合いを入れて長い時間その表現と付き合う必要がある。その特殊さを当事者である私たちも、そろそろ自覚しよう。
 さて1月からはいよいよ眞島竜男のレクチャーシリーズ「どうして、そんなにも、ナショナルなのか?」がはじまる。当然、ただのレクチャーでは終わらないだろうし、安易に「作品行為」とも呼べない。アーティストの肉声を聞いてほしい。

小林 晴夫(2013.1-2チラシ掲載)


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