★週イチセッション発表
パフォーマンス|前後[固有時との会議]

2016年11月から神村恵、高嶋晋一によるアートユニット「前後」が主導して行っている週イチセッションの発表。現在、「固有時との会議」というタイトルをきっかけにさまざまなエクササイズを展開中。


セッションがまだ完結しておらず、発表で何をやるのか決まっていない2017年1月17日時点での方向性をとりあえずここに記します。

【課題1:初めてすることとそうでないこと】
日常の行為において(たとえ些細なものであっても)一度もやったことがない行為を各自リストアップし、初めて行う、とする。たとえば、ある人は生まれてこのかたコンタクトレンズというものを一度も目に入れたことがなく、また別のある人は今までタバコというものを一度も吸ったことがない。こうした、他人がしているのを見たことがあるという意味では既知なものではあるが、実際に自分ではしたことがないことは無数にあるだろう。その経験的な偏差を、何か利用できないか。「初めて」は(半ば自動的に)一度きりのことだが、それは上演やライブなどで言われる「一回性」と何が異なるのか。やったことがないことは第三者の観点において、やったことがないこととして立ち現れるか。

【課題2:練習と準備】
練習と準備はある意味で対照的な概念だと捉えられる。練習で想定されている「本番」は反復可能なことが前提であるのに対し、準備で想定されている「本番」は反復不可能なことが前提になっているからだ。
練習とは、まだできていない何かをできるようにすること。そのために、できないなりにそれを繰り返しやってみて、「できる」という地点まで到達することを目指す。その「できる」は、「偶々できてしまった」ではなくて、いつでも何度でもできるようにすることまで含んでいる。そして定められた期日としての本番で、それを高確率でできなくてはならないというわけだ(練習の究極目標は、練習と本番の区別をなくすことなのかもしれない)。だが反面、一度できるようになった途端に、それ以前のできていない状態は失われるということがある。たとえば、一度自転車に乗れるようになったら、乗れなくなるのは困難である。それでは、自転車に乗れなくなる練習があるとすれば、それはどういうものだろうか。
他方、準備には練習のような「できるようになるために繰り返す」という側面がない。準備とは、本番と同様のことを事前にしない(あるいは原理的にできない)が、本番で十全にそれが行えるように周辺を整えることである。たとえば、旅行に行く準備はできても、旅行に行く練習はできない。練習のために旅行に行けば、それは練習ではなく本番になってしまう。「下見する」ということもあるけれど、それも旅行である。それでは、旅行とは逆に、練習はできても準備することができないものとは何か。練習より準備の方がより包括的な概念だとすれば、それはなぜか。備えておくことで完全な不意打ちを避けようとするわけだから、想定外のことを想定しようとする欲望が準備には含まれているはずだが、「あとはなるようになる」という放り出しの態度もまた、それを特徴づけている。
以上の練習と準備の特徴をふまえて、具体的な行為を考案すること。

【課題3:事実確認的なパフォーマンスとは】
「記事の確かさを確かめるために、同じ新聞を何部も買ってきて読み比べる」(ヴィトゲンシュタイン)。これは一見とてもナンセンスな行為であるように思える。しかしそれがナンセンスではない状況があるとすれば、どのような状況なのか。
私たちは普通、直接事実を検証できないという条件下で、ある記事の確かさを調べるのならば、同じ記事の載っている複数の異なる新聞をいくつか買ってきて、それを読み比べるということをする。「A新聞ではこう言っているが、B新聞ではこう言っている」というように、その共通点と相違点を読むわけだ。そのことで情報を精査し、事実に近づこうとする(だが、事実との結びつきの強固さは、はたしてイコール記事の確かさなのか)。しかし同じ新聞を何部も読み比べる場合、大抵記事の内容は変わらないから、記事の確かさを見るというより、誤字や印刷ミスなどを見ることになる。つまりそこでは記事の内容というものがごっそり抜けてしまう。
あるいは、新聞を何部も買わずに一部だけ買い、そのなかのある記事の確かさを確かめるために何度も読むとする。その場合比べられるのは、さっき読んだ記事(の記憶)と今読んでいる記事との違いである。確かめは記事ではなく読む側の認識能力へと向かってしまう。この確認行為と何部も読み比べる確認行為に違いはあるだろうか。いささかも記事自体についての確かさへと前進しないという意味では、それらに違いはない。では、複数の新聞を買って同じ記事を探して読み比べる場合とその二つの場合とは、違うのだろうか?もちろん違う。なぜなら前者においては、複数の記事を「違う新聞→けれど→同じ記事」と看做した時点で、すでに記事以上のレベルにある事実Xが成立してしまっているから。
ヴィトゲンシュタインの例は、そうした差異を前提とした読み比べができず、事実という次元が立ち上がらない状況、それ以上何も比較し得ない領域に踏み込んだものだった。つまり、繰り返し見たり読んだりすることが、何ら情報の更新もしくは蓄積にはならず、それでもなお比べるという(形骸化した)行為を繰り返してしまう、と。ちっとも変わらない記事内容を、「同じだ」「同じだ」「同じだ」と同じように指し続けることで、確認に失敗し続ける。行き止まりだからこそ反復せざるを得ない。しかしこの局面において、確かめの対象は、記事が指し示しているだろう事実との結びつきではなく、「この新聞記事がまさに今ここに存在している」という端的な事実のほうに移行しているかのようにみえる。
この例を念頭におき、「比べることが不可能なことを比べる」という局面をもつような、何らかの確認行為について考える。通常、確認行為には、すでに確認するまでもなく確か(事実)とされていることがある。けれども、不確かさを除去しようとする行為がかえって、確認するまでもなく確かなことまで不確かな領域に追いやることがある。それがおそらくは事実消失後に特有の、事実確認的な行為のパフォーマティビティである。

出演:鈴木なつき/中村ゆい/神村 恵/高嶋晋一


日程:2017年3月4日(土)
開場:19:00 開演:19:30
入場料:1,600円(ワンドリンク付)





中村 ゆい Yui NAKAMURA
一橋大学社会学研究科博士課程在籍。自身の経験を素材とし「着ること」を記号としてではなく行為として捉え直す試みを行っている。研究と並行して、主に喉、マイクを使ったライブ・パフォーマンス活動も行う。

鈴木 なつき Natsuki SUZUKI
1985年生まれ。武蔵野美術大学建築学科卒業。スイス連邦工科大学留学後、四谷アートステュディウムを受講。現在は建築設計に従事しながら、身体感覚から空間・時間を捉えなおすことを試みている。

前後 Zen-go
2011年、ダンサー・振付家の神村恵と美術家の高嶋晋一により結成されたパフォーマンス・ユニット。身体の物質性とそれを把握する際の観念性との関係を問題の主軸にすえ、ダンスと美術双方にまたがる作品を制作・発表している。これまでの上演作品は、《ポジション・ダウトフル》(2011blanClass、横浜)、《把っ手》(2012、Art Center Ongoing、東京)、《脱脱出、反反応》(2012、blanClass、横浜)、《ムゲ》(2013、GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE、東京)、《exonym/endonym》(2013、Brooklyn International Performance Art Festival、ニューヨーク)、《質す[ただ-す]》(2013、Whenever Wherever Festival、東京)、《ビフォア・オア・アフター》(2015、blanClass、横浜)。

神村 恵 Megumi KAMIMURA
振付家/ダンサー。04年よりソロ作品を発表し始め、06年、神村恵カンパニーとしても活動を開始。これまで、国内外の様々な場所でパフォーマンスを行う。トヨタコレオグラフィーアワード2010ファイナリスト。主な活動に、14年4月 「腹悶」(STスポット)、15年9月、「ワークショップ」(ミルク倉庫との共作)、16年3月 「知らせ」(津田道子との共作)、など。物質としての体、感覚する主体としての体、何かを指し示す体、が交差する場としてダンスを立ち上げる方法論を探っている。

http://kamimuramegumi.info/

twitter @nattonatto

高嶋 晋一 Shinichi TAKASHIMA
美術家。1978年生まれ。パフォーマンスやビデオ作品を制作。主な公演に「14の夕べ」(東京国立近代美術館, 2012)、「わける手順 わすれる技術ver.2.0」(神村恵・兼盛雅幸・高橋永二郎との共作, SNAC, 2015)など。主なグループ展に、『複々線』(現代ハイツ, 2014)、『無条件修復UNCONDITIONAL RESTORATION』(中川周との共作, milkyeast, 2015)『Self-Reference Reflexology』(中川周との共作, milkyeast, 2016)など。

http://studium.xsrv.jp/studium/artistsfile/takashima.php#photo0

twitter @takashimashin




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