blanClass出演依頼をする際に「ワンナイトで完結することならばどんなことでもいいが、最近なんとなく気になっているような、形にならないことでも構わないので、ほかの場所ではできないことをやってほしい。」と、ゲストの方々に言っているうち、いつしかblanClassは、さまざまな世代のアーティストたちが、作品未満の「考え」を試してみる場になった。
 そんな状態のことを指して「友だち以上、作品未満」と言ったことがある。半ば冗談のつもりもあったが、後になってうまいこと言ったなと一人で喜んだ。「友だち以上」というのがいい。「友だち」では馴れ合いのようだし、「友だち以下」では取りつく島もない。「作品未満」の問題を抱えて、お互いに「友だち以上」の関係を探っていく。必要なのは、いくらかの条件とちょっとした約束だけ。それがblanClassの目指すところだといっても過言ではない。
 では、そうやって投げ出されたものとはなんなのか? 「ことば」になって、わかったような気になっている「問題」や「概念」や「状態」をほどいてみたり、文字通りやってみたりすると、まったく違った「状況」や「関係」が浮かび上がってくる。アートがこれまでにやってきたことと大差ないと思われるかもしれないが、手が届く問題意識の中にこそ「社会性」や「政治性」が備わっているもの。「作品」という枠組みをさらに踏み越えたところで考えることが可能であれば、まだまだ確かめられていないことばかりなのに気がつくだろう。
 もちろん「ことば」だけが「言語」であるはずもなく、形骸化された形式やジャンルをいくら批判しても、その底にある「唄う」とか「踊る」とか「描く」とかまでは否定しきれない。もっというと「見る」とか「聞く」とか「嗅ぐ」とか「触る」とかのなかに言語のメカニズムが備わっているはずだから…。どちらにしても言語がなければ生きていけない。

小林晴夫


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