1950年代以降アメリカ経済が発明した消費誘導型情報化社会はさまざまなイメージの差異化を武器に多くの「対立」を創造してきた。現在では「対立項」はどんどん細分化されて、「びみょう」に異なる「商品価値」を世界中のありとあらゆる市場に成立させている。
 しかし真逆に、「共存」を標榜した多くの思想も立ち上がってきた。そういう思想を背景に生まれた「Contemporary Art」とは、実は「同じ時間を共に生きる芸術」という意味。以来、複雑に入り組んだ社会で、多様な価値観の「共存」が目指すべき方向性であることは、多くの人が「共有」しているはずなのだが、その方法はとても難しいらしい。
 もしかすると、知らず知らずのうちに、いろいろなものを楯に、それぞれが「武装」してしまうからかもしれない。
 本物の紛争地帯で武装解除を仕事にしている瀬谷ルミ子を扱ったドキュメンタリーで、幼い頃から武器を持って戦っていた子供のケアをする場面があった。「武器を置いてなにをしたいか?」という瀬谷の問いかけに、その子供は「学校に行きたい」と切実な思いを打ち明けた。
 世界のどこかの紛争地帯やスラムを例にするのは、少し大げさに聞こえるかもしれないが、身近なこの社会にも似たような図式は消え去ってはいない。だれもがなにかにおびえ、なにかに怒り、それぞれの武器を手に入れては入念に武装しているように見える。手に入れてしまった武器を置くのは勇気がいるし、そのかわりに学び続けなければならないだろうから、面倒くさいだろう。
 では一時だけ「にじり戸」の前に二本の刀を置いてみるのはどうだろう? またもとの社会に戻るときには持って帰ればいい。
 balnClassは人里離れた山小屋でもないし、風流を極めた茶室でもないだろうが、武器持参で入室するところでもないようで、外では強面のアーティストたちが、ここではそれぞれ膝をつきあわせて、じっくり思考を巡らせている。言い換えれば、第二のスタジオとして、その場で考えたり、なにかを試したり、途中のことを交換できる場として機能し始めているようなのだ。
 実は最近、奇跡的に生まれたこの状況こそが「共存」の方法を探す唯一の手だてなのではないかと思っている。そのためにもblanClassが地球上で最後の場所になっても、武装解除せざるを得ない場であればいい。

小林晴夫


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