blanClass は特に美術を専門にしているつもりもないけれど、美術以外の形式を専門にしている人たちから見ると、美術サイドの活動に見えるようだ。

私が長らく現代美術を専門にした仕事をしてきたので、人脈がそちら方面にかなり偏っているため、当然といえば当然の話なのだろうが、特に形式を限定せずに、さまざまなバックグラウンドを持ったアーティストに、自分たちのフィールドではなかなかできないことを実験できる場として運営してきたつもり。それでもきっと私自身、現代美術をバックグラウンドに思考してしまうだろうし、どこまでも際限なく開いて、さまざまな価値観に触れるというのも、言葉で言うほどにはうまくいかないもので、美術から、アートと呼び換える理由が形式を問わずという共通認識が、あらかじめあるわけでもない。

ところで、美術というと、演劇、映画、アニメ、テレビなどの領域では、役職の名前になっている。
その職についている人たちは、それぞれその道のプロがおさまっていて、大概の場合、街場で美術家を名乗る人たちとはまた違う人たちが担っている。

そういえば、音楽家、小説家、演劇家たちは、自分の領域を踏み越えて、ポピュラーカルチャーとうまくコラボレーションをしているのに、美術家に限っては役割がほとんどないと、ずっと思っていた。
例えば、現代美術作家が映画の美術を担当していたらどうなっていただろう? 岡本太郎が美術を担当した SF 映画『宇宙人東京に現る』という映画がある。でもこれはあくまでも主観だが、ヒドかった。

プロダクションにおける、美術という役職と、いわゆる美術を同じように呼ぶこと自体に違和感を感じ続けてきたわけだが、最近になって、ちょっと違う感想を持つようになった。というのも、例えば映画を見るとき、映画の中の美術と呼ぶべき部分を、無意識に重要視してきたことに気がついたからだ。

美術と呼ぶべき映画の要素はうまくいけばいくほど空気のようにその映画そのものの雰囲気を決定している。 そう考えると、その美術とこの美術もそう遠くはないかもしれない。さて街場に戻って考え直すと、美術はその程度の役割も担ってこれたのだろうか?

これからのアートにとっても社会の中にアートと呼ぶべき部分や要素をどこまで担えるかが鍵という気がする。こういう考え方は諸刃なので、慎重に発言しなければいけないだろうが、いつでも美術は、社会の外にいて、その社会を批判することだけが役割だったら、本当につまらない。

小林晴夫(2017.6-7 チラシ掲載)


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