「啓蒙ってどういうことなのだろう」とか、「リベラルってどっち向きなのだろう」とか、「ラディカルに生きるって可能なのだろうか」 などと…、悶々と悩んできた。そうしている間、世の中も一緒にリベラルに更新しているだろうと、勝手に思い込んでいたが、成熟したのは経済ばかりで、思想や文化に限っては、驚くほど紋切り型のイメージに逆戻りしていると感じることが多くなった。今になって考えてみると、周りにいた人々が、そもそも少数派だったし、あまり多層に世間を見渡していなかったのだろうと思う。

先日BBCの番組でトニー・ガーネットのインタビューを見た。この人はケン・ローチなどと組んで、イギリスのテレビや映画の世界で、社会リアリズムの手法を発明し、バリバリと仕事をしてきた人だが、最近のマスメディアでは、影響力のある社会的な発言をするのは難しくなってきたと言っていた。それはメディアが産業構造に完全に取り込まれたせいもあるが、60年代には社会に埋もれていた問題を、つくり手も手探りしながら発信していたが、もはやほとんどの問題は、白昼にさらされた後なので、メディアで発言をしたところでインパクトを持たなくなった、というような分析をしていた。

現代社会にある問題自体はすでにあからさまな状態になっているということなのだろう。にもかかわらず、深刻な問題も消費されて飽きられてしまったのかもしれない。情報も商品も問題も、等価なものとして、ただ並んでいるだけなのだろうか? うんざりしてくるが、きっとそんな感覚が標準化してしまって、なにもかもが紋切り型のイメージに収まってしまうのだろう。

というのも、きっと近代に理想とされた、例えば都市のような受け皿が、機能としては完成されてしまって、その器に合わせて物事を考えるものだから、窮屈で退屈な紋切り型がやり取りされてしまうのだろう。そうしていれば当面は安全なのだろうが、結局のところなにもやることが見当たらない。見当たらないから、「私」と「社会」という、どうしようもなく抽象的な世界像の中で、誰とも共有できないような経験を頼りに驚くほど抽象的な表現をその器の上に乗せてみる。スーパーマーケットの生鮮売場みたい。

完成されてしまったシステムのなかに暮らし続けるということは、それらを権威だと怖れるというより、その状態が動かしがたいデフォルトになってしまうのかもしれない。現在の都市とは、かたちを成した硬い器ではなく、意識のなかに張り巡らされたお約束に過ぎないのだ。書を捨てて出る先は、相変わらず町なのだけれど、そのためには、まずはその意識のデフォルト状態の外に出なければならない。うまくそこから出ることができたなら、実はそこにはデフォルト化されていない、未分化でだらしがない世界が複雑に入り組んでいるはず。お役所もなく、学校もなく、美術館もなく、劇場もないような、そんな超屋外で少しずつ、学んだり、考えたり、想ったり、話してみたりしながら、再度、諸々の問題に触れ直していけば、うまくすると現状の紋切り状態からの脱出できるかもしれない。

小林晴夫(2016.9-10チラシ掲載)


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