昨年の12月11日に韓国の清州市(チョンジュ)にあるPUBLiCAiRというアートNPOに呼ばれて「インターナショナル・セミナー」という企画に参加してきた。
日本から「blanClass」と「てしまのまど」の安岐理加さん、タイ(ラーチャブリー)から街なかの展覧会「ART NORMAL」を運営しているGrace Supphakarn Wongkaewさん、韓国から清州市の「PUBLiCAiR」と「HIVE」、忠州市の「Studio Good」、それぞれの活動を紹介していくというイベントだった。
blanClassは、作品になりきらない段階のものでも、初めて試みるフォーマットでも、アーティスト本人がわかっていないことでも、結果うまくいかなくても、とにかくどんな制限も許さないような自由で実験的な思考の場だということを、わかってもらおうと努力したつもりなのだが、blanClass以外のケースはみな地域と深く関わって展開しているチームだったので、もしかするとあまり役には立たない情報だったかもしれない。

準備の段階で、PUBLiCAiRのスタッフで、通訳をしてくれた本島真由美さんが「韓国では前例のない活動なので、韓国語にするのが、とても難しい」というようなことをおっしゃってくれた。そのときは「私だって、わかってやっているわけではないから、そもそも説明するのが難しい」と答えた。

blanClassの運営で心がけているのは「なにもしない」こと、つまり「個人的な想い」を他人に押しつけないこと。これがもし「教育」が前提だとしたら、「なにもしない」のはまずいかもしれない。「教育者」というのは、自分ができることを未熟な者に対して「やってあげる」ことだと思うからだ。
ただし、それが相互に交換するべき「学習」なのだとしたら、話がまったく違ってくる。「学習」が目差すのは「わからない」ことを手探りしつつなにかが生まれることを諦めないということのはずだから、どういう立場にあろうと自分がわかっていることをやっていても、あまり意味がない。過去に確立した、知恵でも、システムでも、領域でも、形式でも、それがどんなに素晴らしいものでも、あるいは、良いものであればあるほど、それを残そうとすることは、どんな「変化」をも阻むものになるに違いない。

私も人の子なので、blanClassの活動の仕掛けをゼロから立ち上げたわけではない。例えば、若い頃に住んだマンハッタンの、いくつかの小さなオルタナティブ・スペースに足繁く通いながら、いつかこんな場所をつくってみたいと夢見たし、これまでしてきた仕事を通して考えてきたことの具現化でもあるけれど、それらがすなわちモデルになっているわけではない。

結果、blanClassのシステムは、バカみたいにシンプルなので、そこにオリジナリティーがあるわけでもないけれど、かといって、同じような場所はほかにないとは思ってはいたのだが、とりあえず、韓国にはないらしいと聞いて、実は内心ちょっとだけ嬉しかった。

                                  小林晴夫(2016.2-3チラシ掲載)


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