5月の「アジアで上演する」に、アイランドジャパンの伊藤悠、(株)大と小とレフ取締役の鈴木一郎太、両氏と共に、「好きにやれる状態を継続する、そのような社会が来るまで」というお題で私も登壇者として参加した。

その日の話題は、それぞれの活動の話のほかに、たとえばアーティストが求められていることが固定化されてしまっている現状をどのように組み替えていけるか? ということが中心になっていたように思う。興味深かったのは鈴木氏の「日本でアートをするにはアーティストという肩書きを名乗らないほうが、アートを実践しやすい」といったような内容の発言だった。これはアーティストに限ったことではなくて、日本の社会の現状では、それぞれの役割やアイデンティティーが、とてもナイーブなイメージに回収されて、居心地の悪い場所に固定化されているような気がしてしまう。成熟してしまった社会というものは、常にそうしたことが起こるものなのかもしれないが、適材適所に人材が配置していないような気がするのだ。

それはどうも「だれかが既得権益を貪って、良からぬ政治によってコントロールしているからだ」とだけは言い切れない気がする。ある知人が「ほとんどの人はノンポリティックスで、善良な人だ」と言っていたが、そういうポリティックスへの無関心というか、拒否反応みたいなものがはびこっているようなのだ。知人の言うポリティックスとは、決して政治屋さんが独占している政治のことではない。日常的にだれもが経済に関与しているようなレベルで起こる、自分が居合わせる場所を、常により良い場に創造していく営みのことだ。カジュアルなレベルでも経済や政治や文化をそれぞれに断絶して、あたかも関係ないものとして考えていったとしたら、なんだかそこにあるのはむき出しの人間関係とか、あるいは装われた体裁だけになってしまう。そうなってから、たとえばポリティックスをするとなったら、確かに「めんどくさい」。

きっとノンポリが増産されているの理由の一つに「めんどくさい」があるに違いない。でも「めんどくさい」ところに共有された問題が隠されているのも確かなこと。その上「めんどくさい」は発明の父でもあるわけだから、いかに「めんどくさい」ことを楽しくやってのけるかというところが、個人の工夫のしどころ。つまりその工夫こそが本来の意味でのポリティックスだと言いたいわけだ。

「めんどくさい」を改めてポジティブな概念として迎え入れることができれば、ポリティックスという言葉にまとわりついている狡猾なイメージを払拭して、よりカジュアルにポリティックスを、細々とした工夫を、面白おかしく生きていくことができるのではないか? などと考えている。

小林晴夫(2015. 6-7. チラシ掲載)


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